2024年4月10日水曜日

いい加減な家づくり 〜引っ越して考えたこと〜

 

 仕事を見つけて新しい生活を始めようとすれば、どこに住むのか場所を決めるところから始まる。条件に合った手頃なものを借りられれば楽で早い。見つからなければ売りに出ている中古住宅を探し、住みだしながらタイミングを見てリフォームや建て替えを考えたり、近くに新しく土地を購入して家を計画するといった、一大事業に展開することもある。

 およそ建築費がこのぐらいかかりそうだから、土地にはここまで配分できそうだと想定する。自分が求めている家がどのくらい費用がかかるか、限られた時間の中で掴むことは難しい。家を建てることは、何度もあるわけでないから。経験豊富な人に道先案内をしてもらえれば安心なのは、山登りと同じだ。

 気持ちを汲み取って的確なアドバイスをしてくれる人と偶然出会えるとは限らないし、相談にのってくれた相手に自分の思いをありのまま正確に伝えられているとも言い切れない。自分自身求めているものが何なのか、分かっているかも確かでない。できたものをみて、ああこうじゃないんだと、その時初めて自分が本当に求めていたものが何だったのかを知る、案外そういうものかもしれない。

 住まいづくりに正解があるものだという先入観は捨てて、出会いのようなものだとすればどうだろう? 100点満点を追い求めるのでなく、夢や希望を寄せ集めて形にするのでもなく、家とのめぐり合わせで生まれた発明だとすれば、正解なんてない。

 家は試しに二つ作って、できたものを並べてみて選ぶ、というわけにはいかない。だから、模型を作り絵にかいたりして、出来上がりをイメージしながら選択する。右に行くか、左の道か、上か下か、しばらく待つか、その都度の判断を積み重ねる。より現実に近いかたちで想像できるように、モデル化する。精密なモデルが必ずしもよいわけでないのは、そこに見ているものは骨格となる構造だったりするからだ。ざっくりと少し引いて眺めたほうが、関係性が浮かび上がる。画家がデッサンを繰り返したあと大作に挑むかのように。

 すこしばかりラフに、あまり突き詰めないほうが、息苦しくなくて、自由な思考が生まれたりもする。最初はざっくりとおおまかな方向性を見定めて、もうすこし先にいけば景色が展けて見えやすくなるだろうと、とりあえず今は高を括っていよう、そのぐらいの構えでいても時にはよい。

 それでも最終的には、これが求めていたものだと、納得感は欲しい。的外れな結果とならないために、おたがい共通する感覚をベースにすれば、ストライクゾーンが広がる。ぼくらは縄文時代から変わらない人間であり、よすがとしているこの身体がここちよいと感じるものは、いつの時代もそれほど大きく変わらないのだとしたら。

 旅先の風景や古い建物のたたずまい、街角のカフェの居心地のよさ、焼きたてのパンの香りや洗いたてのタオルの肌触り、理由はわからないけれどなんだかいいなと僕らが感じる体験を、そうそうこういうのだよねと、お互いに確認しあいながら進んでいけば、いつのまにか目的地に辿り着いていた、そんな道行きであればラッキーだ。

 ものをつくる仲間内では、さじ加減を調整しながら、少し足りない、行き過ぎたよ、そうそのくらいと、気軽に言葉を交わせたい。相手の呼吸を意識し、ゆらぐ波長に敏感であるために、おすすめの定番商品があると有効かもしれない。相手に自分の立ち位置を、こっちこっち、あともう少しだよと伝えられて、互いの距離が掴みやすくなる。

 住まいのスタンダードナンバーは、最先端で尖った流行りものでなく、ノスタルジックで夢心地なものでもなく、一見無造作で、ぼやっとした印象かもしれない。今時出回っている手頃な素材は、誰が作っても仕上がりに差のでない規格品で、経年変化で味わいも増さない。けれどその組み合わせには、この地域独自の文化や経験を踏まえた、これみよがしでない見識が垣間見れたりもする。

 何かの犠牲の上に成り立つのとは違うあり方で、依頼主や作り手だけでもなく、テーブルにつく誰しもが、同じものを見ながら、フラットな立場で発信しあえる場所ができるといいなと思っている。