2024年2月22日木曜日

そのコミュニティに他者性はあるの? 〜2024年新建築を巡って、建築筋肉道場より〜

  職場での付き合いがそこを辞めてからも続くことは稀だから、この度「建築筋肉道場を開きませんか?」と勉強会の誘いがかつての建設プロジェクトの同志からあったことは有難く、「それなら仲間にも声掛けしますよ」と僕は言い、心当たりのある建築好きたちを誘うと案外皆も乗り気になって、月に一度のWEBミーティングが始まることになった。

 「新建築」という百年近くの歴史あるメディアを教材にして、そこから取り上げた一つの建物を皆で批評しこれからの時代の問題意識を共有するというのが会の趣旨で、発起人の構造設計の分野で経験豊富な某氏が新建築2024年1月号からピックアップしたのは「M計画の経緯」だった。氏によれば「なぜこれが新建築に?」との疑念が選定理由だったという。よくよくその計画の経緯を誌面で読み込んで行けば、今の時代ならではの建築家像への問題意識を持ったものだったが、僕の第一印象でも「部分では目を引く素材の扱いはあるが、バラックにしか見えない」というものだった。


 それでも皆で思うところを話していけば、地道に長い年月をかけてクライアントに寄り添い地域に根ざし手間暇をかけながらなんでもない建物の改修をする姿勢にこそ、これからのかかりつけ医的な設計者の可能性があるのだと、好意的な意見も出てきた。とはいえ、よくよく見ればリフォーム案件にはありがちなこれってコンプライアンス上どうなのかというグレーな部分も垣間見えて、いやいやそのギリギリなところを攻める姿勢こそ貴重なのだと思えたりもして・・

 会を終えた後、グループラインで感想会を展開しながら各自の問題意識に引き寄せ派生した気づきを共有した。作家性や作品性の強い建築はもはや時代遅れだと、時間軸や場所性にウェイトを置いた関係性配慮型と権威主義的な建築との対比、すなわちかつてブルーノ・タウトが桂離宮vs日光東照宮で描いた二項対立を持ち出す者もいれば、民俗学に引き寄せて庶民生活の物語化によって抽出される社会レイヤーにこそ注目すべきだと展開する論もあった。


 俎上にのせる案件の選定は持ち回りでとなり翌月の担当となった僕は、さっそく月末に勇んで本屋へ行くと、次月号の新建築はまだ店頭に並んでいなかった。翌週満を持して再訪し、手にしたかの冊子は思いの外薄っぺらく、発行部数が少ないのか価格に対しても割高感は否めない。建築設計業を始めて四半世紀以上になる僕も、新建築は立ち読みはしてもなぜか意味の分からない意地で買うことはなくて、不覚に唯一購入した機会は2007年に西沢立衛氏設計のHouse Aが表紙を飾った号だ。一方で不定期でも頻繁に購読したのは同じ新建築社が発行する主に海外の建築を取り上げた「a+u(建築と都市)」で、二つの雑誌の違いは何かといえば後者が取り上げる物件は法律も地域性も異なる海外の建築だから日本でそのまま真似できないことで、だから表層的でないエッセンスを学ぶことができる。流行を追い記録することが雑誌の使命であるからもちろん新建築に罪はなくそれを後追いする側の姿勢の問題だが、あえて距離をとって眺めるぐらいが妥当だと僕には感じられてきた。それが一転これからは、議論の場での共有すべき素材となる。


 2024年2月号の新建築には、17の建築やプロジェクトが掲載されている。普段は号ごとのテーマ設定はないが今月はたまたま集合住宅特集で、表紙にはフォトジェニックな円形中庭の吹抜けカットが華々しく飾られる。前職で僕もマンションを手がけていたから、ここまでデザイン性を突き詰める尋常でない労力は容易に想像できて感心するが、どこかの別世界で繰り広げられるマジシャンの奇術を見ているようで、他にも共感する物は少なかった。今の時代にとどまらず次の時代を切り拓く新しい建築群だからなのか、それとも実際に現場に行って見てみればまた違った印象を受けるのかもしれない。雑誌で切り取って見せられるのはほんのわずかな一面なのだから、それだけを見て批判するのはどうかとも思う。

 けれどもこの雑誌が本屋に並んでいて、建築業界以外の人が興味を持ち手に取り共感することがあるのだろうか。建築に携わる者の目からが見れば、かつてのスター建築家が作ってきた建築作品とは趣向の異なる、仮設的だったり横断的でコミュニティを活性化させそうな目新しさがあるのだとしても、それは批評的な意味でしかない。ああ言えばこう言う類の、飲み屋の議論と大差ない。おまけに、とりあえずこの建築家の名前さえ背表紙に出ていれば顔ぶれ的には見栄えするから、ぐらいの選定理由しか思い浮かばない建築も幾つか散見する。かつて戦後1950年代に誌上で「伝統論争」を繰り広げた頃のような編集者の批判的な矜持はあるのだろうか?


 僕は今月号をあらかた見終えた後に、巻末細かい文字で控えめにこっそりとある編集後記に目を留める。雪山の宿泊施設を設計した吉阪隆正氏の言葉から「多種多様な宿泊者をすべて自分たちの家族だと思い、大切な人間関係の理念が文明だと思っている都会よりも却ってこんな所に案外易々と見出される」との引用がある。吉阪氏は、考現学を提唱し日本生活学会を設立した今和次郎氏のあと次期会長を務め、自らも世界平和に寄与する有形学を唱え、著名な登山家でもあった。地域風土に根ざした有機的な建築で定評のある象設計集団や、内藤廣氏も彼を師と仰ぐ。

 編集者たちがこの号に込めた「集まって住むこと」や「コミュニティ」に対する何かしらの意図や思いがあるのかもしれないと、いくばくかの期待を込めてもう一度最初から新建築を見直す。もしかすると先入観のある眼差しで見ていたのは自分の方で、案外この薄っぺらく見えた冊子の中にこそ、僕自身に足りていない見知らぬ他者への配慮や専門性ある知見が潜んでいるのかもしれないなと思う。そして筋肉道場が開かれた良い機会だから、上っ面な情報収集の媒体としてでなく、しっかりと腰を据えて定期購読を試してみても良いんじゃないかしらとも考え始めている。