2023年12月31日日曜日

比叡山の麓で月のように 〜修学院離宮・円通寺〜


 神奈川から京都に職場を移して二ヶ月が経つ。年末の大掃除では、比叡山を望む事務所の大ガラス面の拭き掃除を担当した。古いファイルの仕分けをしながら、この会社が重ねてきた品質管理のウェイトの置き方を見た。その日は同僚たちが忘年会を兼ねて僕の歓迎会を企画してくれていた。発起人は遅まきながらと言ったが、自分が期待される役割を測る間合いが持てた分、時期はそぐわしいように思えた。店までの道中、普段交わすことのない各々のよもや話を交わした。店に着くと四人掛けが二つ並んだ親密なコーナー席に幹事がすでにスタンバイし、テーブルには席次に沿って名札が配られていた。僕なら状況次第で気ままに着座とするところを、事前の配慮はありがたかった。キャラクターをどう組み合わせれば話しが興じ場が盛り上がるだろうかと想像し配置を描く、そこには映画や芝居や小説にも通じる構想力が必要となるだろう。周到な前さばきは、出来事を枠に留めることなく、先の展望を見晴らし良くする。

「もうふた月ですね。京都は慣れました?」

「おかげさまで。先日東京に所用で戻った時、どんな所に越したのと聞かれて、比叡山の麓、御水尾上皇が江戸時代に修学院と幡枝、二つ離宮を構えたところだよって。彼の院は、ものづくりへの執着が強く今でいう建築家のような存在で、三十二人もお子さんがいたんですって。桂もですけど修学院もこれぞ日本文化だってものすごい数の人が来ますが、上皇はそこまで想像してたのかなあ。池を見下ろす茶屋があって、池に木々や空が映り込んで見事なんですけど、水面って浅い方が波が立ちづらくて、広さ11,500㎡で深さが50㎝程ですって。上・中・下と分かれた茶屋をはしごするその道中に段々と棚田が伸びやかに拡がる。もう一つの幡枝離宮跡の円通寺も、比叡山の借景はスペクタクルな壮大さです。そういうのを見て、人はもちろんああすごいなあって、これまで知らずにいたここでしか見れないものを目の当たりにした驚きと感慨、今生きていることのリアリティが刺激される。写真ではなくその場の空気に包まれる身体性は、きっと縄文人にだって共通していた。比叡山の真西に面してる岩倉忠在地って弥生時代後期の遺跡が出土していて、時代は違えども彼らともご近所さんなんですよ。もちろんこうして同じ時代にテーブルを囲んでいる奇跡に比べれば、遠い存在なんですけれど」

「もちろんその雄大さは分かります、けれどそれって気晴らし以上の意味ってあるんでしょうか? 毎日仕事を終えて帰って食事や洗濯や子供の宿題を見て習い事への送り迎へ、その道中に比叡山が見えるとか夕日が綺麗だとか虹が見えるとかオシャレなカフェが出来ただとか、それってただのガス抜きぐらいの価値しか私には見出せないんですけど」

「心に余裕がないとって割とあるじゃないですか、目の前のことだけでなくて視野を広げれば見え方が変わるってことがありますよね。そういうの他人から言われるとカチンときて、お金も時間も余裕のある恵まれた人は、そりゃあ見ている世界も違いますよねって。デザインもただ人に良く見せたいとか今の流行りだとかで選ぶと薄っぺらくて消費されるのも早くて。けれどそういうのとは違うデザインの力ってある気がしていて。映画とか僕は映画館でしかほぼ見ないんですけど、映画館って人がこなくても流しますよね、今日は観客いないんで止めますってしてないと思うんです。売れなさそうな映画だから早送りしようとかもないし、トイレいきたいたから一時停止とかできない、他に見ている人が一緒だから。僕がいようがいまいが映画はそこにあって、淡々と物語を流し続ける。バスもそうですよね。乗客がいなそうだからって、走らないわけにいかない。飲食店も、今日はお客さん来なそうだったから仕込みしてませんっていえない。デザインもそうで、これはよくあまり人から見えない面だから整ってなくて良いとかしない。隠れちゃうところだから断熱抜きましょうってのと同じだから。正面と裏面とを同じように設うということでなくて、表にも裏にもそれぞれにふさわしいあり方がある。そういう適切な配慮というか正直さがないと、社会の基盤が揺らいじゃう。僕なりに支えなくちゃならない持ち分があって、それを疎かにしても誰にも分からないんだけど、継続していればいつか誰かの頼りになるかもしれない」

「そういう考えもあるんでしょうけれど、使命とか押し付けられると嫌ですね」

「もちろん自ずと配分されたものだから、当人は案外気づいてないかもです。月だって自分が水面に映って綺麗だとか考えていない、だけどもどこかで誰かがその月のおかげで励まされたり癒やされたりしているかもしれない。そのために月は太陽からの光をしっかりと受け止めて反射し続ける役割なんだと思う。そういう健気さ、ああ今日も月は月でいてくれているなあっていう、そういう安心感を与える存在が大事なのかなと。いつも同じでブレないから、周りの変化を映し込んでいろんな表情が生まれる。どこを切っても同じ顔の金太郎じゃなくても、切り方の力加減で少し笑って見えたり泣いてたりしていいじゃないですか。そのためには、その日に出会ったものに的確に応えていたい、あなたがそこにいて僕はそのすがたを心に映し込んでいますよと、その相手が山だろうが鴨だろうがなんだって変わらなくて、美しいものに出会えたらちゃんと心に届いていますよと、醜いものにだってこんな風に見えていますよとそのまま返してあげればいいと思うんです、余計なお世話かもだけど」

「役割って封建的だし、石とか山に魂って、アニミズム的なことですか? 否定しているわけじゃないんですけど、なんだか飛躍しすぎて現実感がなくって」

「よく言われます、話が唐突だって。まあつまりは、今この目の前の料理が美味しくて、こうして去年の年末には想像すらしなかったメンバーとご縁ができて、年が来るのも忘れて地酒に酔って、それが今の全てでそれ以上以下もないといえばいいんでしょうか」

「なんかうまくまとめようとしてますね」


 時間を区切った一つ目の店を後にし、せっかく集まった機会なのだからもう一軒僕らは飲み屋をはしごをした。幹事役が携帯で素早く近場で押さえてくれた二件目の店に着くと、外階段には人だかりが列をなし、けれど予約の方優先ですからどうぞとすんなり通された。結局終電間際まで店にいて、それぞれの帰路に着いた。上中下、三つの茶屋をはしごした後水尾院の熱意にはさすがにかなわなかったなと気付いた。