2011年9月27日火曜日

すまいへの愛

 長く愛着をもてる家って、どんなすまいなのでしょう。

 風通しがよくって、明るくて、居心地がよくて、安心感をもてて,などなど数え上げれば、多様な場所と様々な文化がある中で答えは無限に拡散していくようにも思えます。そんな中で私たちは、なるべくならデザイナーとして独りよがりな姿勢は避けたいと願ってすまいを提案しています。誰しもが、新しく建てられたすまいを、我が子の誕生のようにその存在をまるごと承認するかのごとく、自然でさり気ないたたずまいをすまいに与えることができたならと切望します。
 
 それでは、赤ん坊が皆から惜しみなく愛されるのはなぜなのでしょうか。愛くるしい笑顔だから?数々の理由を並べてみても言い尽すことはないことでしょう。ただひとつ確かなことは、赤ん坊はまわりの環境を映し出す鏡だということです。生後一時間に満たない新生児が大人の顔真似をしたという報告もあるようです。赤ん坊は絶対的な自立した存在ではなく、自分を含めた周囲の状況を身体的に受け入れそのまま相手に投げ返し、そこにある関係性をそのままかたちとして定位しています。私たちは生まれてきて間もない赤ん坊を前にして、自らの投影だとは気づかないまま、人類が歩んできた時間の厚みを逆説的に感じているように思えます。

 量の不足が決してあるわけでもないこの国で、それでも住宅に価値があるのだとしたら、私たちはすまいづくりを通して、太古の人類も同じように目の当たりにした家のかたちが立ち上がる風景に出会い、そこで育まれる生活とともにすまいの成長を愛をもって見続けるからかもしれません。

2011年9月23日金曜日

Alle Erde 全地~神奈川県立近代美術館 葉山より~

  御用邸に近い旧高松宮邸跡には,神奈川県立近代美術館 葉山が建設されています。南西の一色海岸から北の三ヶ岡山に向けて広がるL字形のオープンスペースに面したこの美術館で、60年の歴史ならではの「現代美術の展開」というコレクション展が10/2まで開催されています。
 海外作品による企画展が震災により困難となりその代わりの展示ではありましたが、今あるこの現状から何が発見できるのか、主催者側鑑賞者側の双方が問われることとなり、場所と歴史を内省させる静かながらも骨太な内容でした。

 中でもアブラハム・デイヴィッド・クリスチャンによる、「Alle Erde 全地」をテーマとした作品群は秀逸な印象を与えてくれます。紙と鉛筆と土、素朴な材料を使いながらも、精神の核心まで世界の手応えを届けようとする彫刻やドローイングの試みは、ニューヨーク、デュッセルドルフ、葉山を創作の場としている作者ならではの場所に対する鋭敏な感性を伝えてくれます。葉山という土地に根ざしたからこそ成立したかに感じられるこの美のかたちが、もし別の場所に展示されていたならどんな風に受け止められるのでしょうか。

 ‘世界’と呼んでみても、そこに万人がある共通のイメージを抱くことは少なくなってきている時代かもしれません。それでもかろうじて身近に触れ共感しやすい土や紙を使いながら、単純明快な美を彼は構成しているかに見えます。
 Alle Erdeの中のひとつ’アフリカは世界である’と題されたオイルスティックと紙によるシンプルで力強い筆跡からは、たまたまわたしたちがいるこの場所から世界は地続きなんだという、当たり前といえば当たり前の、決してお仕着せではない驚きが伝わってくるのです。

2011年9月9日金曜日

幻の美術館~清春芸術村と谷口吉郎~

 同人誌・白樺のなかで「いくら小さくても気持ちのいい、本物のわかる人が見て喜んでくれる美術館を建てたく思う・・」と綴ったのは武者野小路実篤です。それに共感した吉井長三氏により実現された美術館が山梨の長坂にあります。
 
 そこは清春芸術村と呼ばれ、著名なデザイナーによりいくつかの美術館・アトリエ・図書館などの文化施設が建設されています。谷口吉生・吉田五十八・安藤忠雄・藤森照信といったスター建築家による建物をより魅力的に見せる基本設計は谷口吉郎氏と聞きます。
 
 敷地は廃校になった木造の小学校があった比較的小高い場所です。そのためか、建物の配置は元の校庭らしき広場に並ぶ群と、少し段差をつけた校舎跡に並ぶ群とに分かれます。前者はそれぞれの建物に序列がなく彫刻を並べるように配置され、後者は建築計画的に建物の関係性を意識した配置となっています。校庭での遊びのルールは子供たちの自主性にまかせ、教室では模範となる規律を示しているとでもいえましょうか。
 
 谷口吉郎氏が遺した意図は、学校という場が持つ空間構成とそこで営まれる社会活動を抽出することであったように感じられます。空間とアクティビティとの相関関係を客観的に描写することで、芸術村自体がひとつの学校、ひとつの美術館、ひとつの社会と見立てる視線を獲得できるかもしれません。その先に、社会そのものが自立した美を体現する個人や組織の集合体にいつかなりうるという希求がこめられているようにも思えるのです。