2024年4月10日水曜日

いい加減な家づくり 〜引っ越して考えたこと〜

 

 仕事を見つけて新しい生活を始めようとすれば、どこに住むのか場所を決めるところから始まる。条件に合った手頃なものを借りられれば楽で早い。見つからなければ売りに出ている中古住宅を探し、住みだしながらタイミングを見てリフォームや建て替えを考えたり、近くに新しく土地を購入して家を計画するといった、一大事業に展開することもある。

 およそ建築費がこのぐらいかかりそうだから、土地にはここまで配分できそうだと想定する。自分が求めている家がどのくらい費用がかかるか、限られた時間の中で掴むことは難しい。家を建てることは、何度もあるわけでないから。経験豊富な人に道先案内をしてもらえれば安心なのは、山登りと同じだ。

 気持ちを汲み取って的確なアドバイスをしてくれる人と偶然出会えるとは限らないし、相談にのってくれた相手に自分の思いをありのまま正確に伝えられているとも言い切れない。自分自身求めているものが何なのか、分かっているかも確かでない。できたものをみて、ああこうじゃないんだと、その時初めて自分が本当に求めていたものが何だったのかを知る、案外そういうものかもしれない。

 住まいづくりに正解があるものだという先入観は捨てて、出会いのようなものだとすればどうだろう? 100点満点を追い求めるのでなく、夢や希望を寄せ集めて形にするのでもなく、家とのめぐり合わせで生まれた発明だとすれば、正解なんてない。

 家は試しに二つ作って、できたものを並べてみて選ぶ、というわけにはいかない。だから、模型を作り絵にかいたりして、出来上がりをイメージしながら選択する。右に行くか、左の道か、上か下か、しばらく待つか、その都度の判断を積み重ねる。より現実に近いかたちで想像できるように、モデル化する。精密なモデルが必ずしもよいわけでないのは、そこに見ているものは骨格となる構造だったりするからだ。ざっくりと少し引いて眺めたほうが、関係性が浮かび上がる。画家がデッサンを繰り返したあと大作に挑むかのように。

 すこしばかりラフに、あまり突き詰めないほうが、息苦しくなくて、自由な思考が生まれたりもする。最初はざっくりとおおまかな方向性を見定めて、もうすこし先にいけば景色が展けて見えやすくなるだろうと、とりあえず今は高を括っていよう、そのぐらいの構えでいても時にはよい。

 それでも最終的には、これが求めていたものだと、納得感は欲しい。的外れな結果とならないために、おたがい共通する感覚をベースにすれば、ストライクゾーンが広がる。ぼくらは縄文時代から変わらない人間であり、よすがとしているこの身体がここちよいと感じるものは、いつの時代もそれほど大きく変わらないのだとしたら。

 旅先の風景や古い建物のたたずまい、街角のカフェの居心地のよさ、焼きたてのパンの香りや洗いたてのタオルの肌触り、理由はわからないけれどなんだかいいなと僕らが感じる体験を、そうそうこういうのだよねと、お互いに確認しあいながら進んでいけば、いつのまにか目的地に辿り着いていた、そんな道行きであればラッキーだ。

 ものをつくる仲間内では、さじ加減を調整しながら、少し足りない、行き過ぎたよ、そうそのくらいと、気軽に言葉を交わせたい。相手の呼吸を意識し、ゆらぐ波長に敏感であるために、おすすめの定番商品があると有効かもしれない。相手に自分の立ち位置を、こっちこっち、あともう少しだよと伝えられて、互いの距離が掴みやすくなる。

 住まいのスタンダードナンバーは、最先端で尖った流行りものでなく、ノスタルジックで夢心地なものでもなく、一見無造作で、ぼやっとした印象かもしれない。今時出回っている手頃な素材は、誰が作っても仕上がりに差のでない規格品で、経年変化で味わいも増さない。けれどその組み合わせには、この地域独自の文化や経験を踏まえた、これみよがしでない見識が垣間見れたりもする。

 何かの犠牲の上に成り立つのとは違うあり方で、依頼主や作り手だけでもなく、テーブルにつく誰しもが、同じものを見ながら、フラットな立場で発信しあえる場所ができるといいなと思っている。

2024年2月22日木曜日

そのコミュニティに他者性はあるの? 〜2024年新建築を巡って、建築筋肉道場より〜

  職場での付き合いがそこを辞めてからも続くことは稀だから、この度「建築筋肉道場を開きませんか?」と勉強会の誘いがかつての建設プロジェクトの同志からあったことは有難く、「それなら仲間にも声掛けしますよ」と僕は言い、心当たりのある建築好きたちを誘うと案外皆も乗り気になって、月に一度のWEBミーティングが始まることになった。

 「新建築」という百年近くの歴史あるメディアを教材にして、そこから取り上げた一つの建物を皆で批評しこれからの時代の問題意識を共有するというのが会の趣旨で、発起人の構造設計の分野で経験豊富な某氏が新建築2024年1月号からピックアップしたのは「M計画の経緯」だった。氏によれば「なぜこれが新建築に?」との疑念が選定理由だったという。よくよくその計画の経緯を誌面で読み込んで行けば、今の時代ならではの建築家像への問題意識を持ったものだったが、僕の第一印象でも「部分では目を引く素材の扱いはあるが、バラックにしか見えない」というものだった。


 それでも皆で思うところを話していけば、地道に長い年月をかけてクライアントに寄り添い地域に根ざし手間暇をかけながらなんでもない建物の改修をする姿勢にこそ、これからのかかりつけ医的な設計者の可能性があるのだと、好意的な意見も出てきた。とはいえ、よくよく見ればリフォーム案件にはありがちなこれってコンプライアンス上どうなのかというグレーな部分も垣間見えて、いやいやそのギリギリなところを攻める姿勢こそ貴重なのだと思えたりもして・・

 会を終えた後、グループラインで感想会を展開しながら各自の問題意識に引き寄せ派生した気づきを共有した。作家性や作品性の強い建築はもはや時代遅れだと、時間軸や場所性にウェイトを置いた関係性配慮型と権威主義的な建築との対比、すなわちかつてブルーノ・タウトが桂離宮vs日光東照宮で描いた二項対立を持ち出す者もいれば、民俗学に引き寄せて庶民生活の物語化によって抽出される社会レイヤーにこそ注目すべきだと展開する論もあった。


 俎上にのせる案件の選定は持ち回りでとなり翌月の担当となった僕は、さっそく月末に勇んで本屋へ行くと、次月号の新建築はまだ店頭に並んでいなかった。翌週満を持して再訪し、手にしたかの冊子は思いの外薄っぺらく、発行部数が少ないのか価格に対しても割高感は否めない。建築設計業を始めて四半世紀以上になる僕も、新建築は立ち読みはしてもなぜか意味の分からない意地で買うことはなくて、不覚に唯一購入した機会は2007年に西沢立衛氏設計のHouse Aが表紙を飾った号だ。一方で不定期でも頻繁に購読したのは同じ新建築社が発行する主に海外の建築を取り上げた「a+u(建築と都市)」で、二つの雑誌の違いは何かといえば後者が取り上げる物件は法律も地域性も異なる海外の建築だから日本でそのまま真似できないことで、だから表層的でないエッセンスを学ぶことができる。流行を追い記録することが雑誌の使命であるからもちろん新建築に罪はなくそれを後追いする側の姿勢の問題だが、あえて距離をとって眺めるぐらいが妥当だと僕には感じられてきた。それが一転これからは、議論の場での共有すべき素材となる。


 2024年2月号の新建築には、17の建築やプロジェクトが掲載されている。普段は号ごとのテーマ設定はないが今月はたまたま集合住宅特集で、表紙にはフォトジェニックな円形中庭の吹抜けカットが華々しく飾られる。前職で僕もマンションを手がけていたから、ここまでデザイン性を突き詰める尋常でない労力は容易に想像できて感心するが、どこかの別世界で繰り広げられるマジシャンの奇術を見ているようで、他にも共感する物は少なかった。今の時代にとどまらず次の時代を切り拓く新しい建築群だからなのか、それとも実際に現場に行って見てみればまた違った印象を受けるのかもしれない。雑誌で切り取って見せられるのはほんのわずかな一面なのだから、それだけを見て批判するのはどうかとも思う。

 けれどもこの雑誌が本屋に並んでいて、建築業界以外の人が興味を持ち手に取り共感することがあるのだろうか。建築に携わる者の目からが見れば、かつてのスター建築家が作ってきた建築作品とは趣向の異なる、仮設的だったり横断的でコミュニティを活性化させそうな目新しさがあるのだとしても、それは批評的な意味でしかない。ああ言えばこう言う類の、飲み屋の議論と大差ない。おまけに、とりあえずこの建築家の名前さえ背表紙に出ていれば顔ぶれ的には見栄えするから、ぐらいの選定理由しか思い浮かばない建築も幾つか散見する。かつて戦後1950年代に誌上で「伝統論争」を繰り広げた頃のような編集者の批判的な矜持はあるのだろうか?


 僕は今月号をあらかた見終えた後に、巻末細かい文字で控えめにこっそりとある編集後記に目を留める。雪山の宿泊施設を設計した吉阪隆正氏の言葉から「多種多様な宿泊者をすべて自分たちの家族だと思い、大切な人間関係の理念が文明だと思っている都会よりも却ってこんな所に案外易々と見出される」との引用がある。吉阪氏は、考現学を提唱し日本生活学会を設立した今和次郎氏のあと次期会長を務め、自らも世界平和に寄与する有形学を唱え、著名な登山家でもあった。地域風土に根ざした有機的な建築で定評のある象設計集団や、内藤廣氏も彼を師と仰ぐ。

 編集者たちがこの号に込めた「集まって住むこと」や「コミュニティ」に対する何かしらの意図や思いがあるのかもしれないと、いくばくかの期待を込めてもう一度最初から新建築を見直す。もしかすると先入観のある眼差しで見ていたのは自分の方で、案外この薄っぺらく見えた冊子の中にこそ、僕自身に足りていない見知らぬ他者への配慮や専門性ある知見が潜んでいるのかもしれないなと思う。そして筋肉道場が開かれた良い機会だから、上っ面な情報収集の媒体としてでなく、しっかりと腰を据えて定期購読を試してみても良いんじゃないかしらとも考え始めている。


2023年12月31日日曜日

比叡山の麓で月のように 〜修学院離宮・円通寺〜


 神奈川から京都に職場を移して二ヶ月が経つ。年末の大掃除では、比叡山を望む事務所の大ガラス面の拭き掃除を担当した。古いファイルの仕分けをしながら、この会社が重ねてきた品質管理のウェイトの置き方を見た。その日は同僚たちが忘年会を兼ねて僕の歓迎会を企画してくれていた。発起人は遅まきながらと言ったが、自分が期待される役割を測る間合いが持てた分、時期はそぐわしいように思えた。店までの道中、普段交わすことのない各々のよもや話を交わした。店に着くと四人掛けが二つ並んだ親密なコーナー席に幹事がすでにスタンバイし、テーブルには席次に沿って名札が配られていた。僕なら状況次第で気ままに着座とするところを、事前の配慮はありがたかった。キャラクターをどう組み合わせれば話しが興じ場が盛り上がるだろうかと想像し配置を描く、そこには映画や芝居や小説にも通じる構想力が必要となるだろう。周到な前さばきは、出来事を枠に留めることなく、先の展望を見晴らし良くする。

「もうふた月ですね。京都は慣れました?」

「おかげさまで。先日東京に所用で戻った時、どんな所に越したのと聞かれて、比叡山の麓、御水尾上皇が江戸時代に修学院と幡枝、二つ離宮を構えたところだよって。彼の院は、ものづくりへの執着が強く今でいう建築家のような存在で、三十二人もお子さんがいたんですって。桂もですけど修学院もこれぞ日本文化だってものすごい数の人が来ますが、上皇はそこまで想像してたのかなあ。池を見下ろす茶屋があって、池に木々や空が映り込んで見事なんですけど、水面って浅い方が波が立ちづらくて、広さ11,500㎡で深さが50㎝程ですって。上・中・下と分かれた茶屋をはしごするその道中に段々と棚田が伸びやかに拡がる。もう一つの幡枝離宮跡の円通寺も、比叡山の借景はスペクタクルな壮大さです。そういうのを見て、人はもちろんああすごいなあって、これまで知らずにいたここでしか見れないものを目の当たりにした驚きと感慨、今生きていることのリアリティが刺激される。写真ではなくその場の空気に包まれる身体性は、きっと縄文人にだって共通していた。比叡山の真西に面してる岩倉忠在地って弥生時代後期の遺跡が出土していて、時代は違えども彼らともご近所さんなんですよ。もちろんこうして同じ時代にテーブルを囲んでいる奇跡に比べれば、遠い存在なんですけれど」

「もちろんその雄大さは分かります、けれどそれって気晴らし以上の意味ってあるんでしょうか? 毎日仕事を終えて帰って食事や洗濯や子供の宿題を見て習い事への送り迎へ、その道中に比叡山が見えるとか夕日が綺麗だとか虹が見えるとかオシャレなカフェが出来ただとか、それってただのガス抜きぐらいの価値しか私には見出せないんですけど」

「心に余裕がないとって割とあるじゃないですか、目の前のことだけでなくて視野を広げれば見え方が変わるってことがありますよね。そういうの他人から言われるとカチンときて、お金も時間も余裕のある恵まれた人は、そりゃあ見ている世界も違いますよねって。デザインもただ人に良く見せたいとか今の流行りだとかで選ぶと薄っぺらくて消費されるのも早くて。けれどそういうのとは違うデザインの力ってある気がしていて。映画とか僕は映画館でしかほぼ見ないんですけど、映画館って人がこなくても流しますよね、今日は観客いないんで止めますってしてないと思うんです。売れなさそうな映画だから早送りしようとかもないし、トイレいきたいたから一時停止とかできない、他に見ている人が一緒だから。僕がいようがいまいが映画はそこにあって、淡々と物語を流し続ける。バスもそうですよね。乗客がいなそうだからって、走らないわけにいかない。飲食店も、今日はお客さん来なそうだったから仕込みしてませんっていえない。デザインもそうで、これはよくあまり人から見えない面だから整ってなくて良いとかしない。隠れちゃうところだから断熱抜きましょうってのと同じだから。正面と裏面とを同じように設うということでなくて、表にも裏にもそれぞれにふさわしいあり方がある。そういう適切な配慮というか正直さがないと、社会の基盤が揺らいじゃう。僕なりに支えなくちゃならない持ち分があって、それを疎かにしても誰にも分からないんだけど、継続していればいつか誰かの頼りになるかもしれない」

「そういう考えもあるんでしょうけれど、使命とか押し付けられると嫌ですね」

「もちろん自ずと配分されたものだから、当人は案外気づいてないかもです。月だって自分が水面に映って綺麗だとか考えていない、だけどもどこかで誰かがその月のおかげで励まされたり癒やされたりしているかもしれない。そのために月は太陽からの光をしっかりと受け止めて反射し続ける役割なんだと思う。そういう健気さ、ああ今日も月は月でいてくれているなあっていう、そういう安心感を与える存在が大事なのかなと。いつも同じでブレないから、周りの変化を映し込んでいろんな表情が生まれる。どこを切っても同じ顔の金太郎じゃなくても、切り方の力加減で少し笑って見えたり泣いてたりしていいじゃないですか。そのためには、その日に出会ったものに的確に応えていたい、あなたがそこにいて僕はそのすがたを心に映し込んでいますよと、その相手が山だろうが鴨だろうがなんだって変わらなくて、美しいものに出会えたらちゃんと心に届いていますよと、醜いものにだってこんな風に見えていますよとそのまま返してあげればいいと思うんです、余計なお世話かもだけど」

「役割って封建的だし、石とか山に魂って、アニミズム的なことですか? 否定しているわけじゃないんですけど、なんだか飛躍しすぎて現実感がなくって」

「よく言われます、話が唐突だって。まあつまりは、今この目の前の料理が美味しくて、こうして去年の年末には想像すらしなかったメンバーとご縁ができて、年が来るのも忘れて地酒に酔って、それが今の全てでそれ以上以下もないといえばいいんでしょうか」

「なんかうまくまとめようとしてますね」


 時間を区切った一つ目の店を後にし、せっかく集まった機会なのだからもう一軒僕らは飲み屋をはしごをした。幹事役が携帯で素早く近場で押さえてくれた二件目の店に着くと、外階段には人だかりが列をなし、けれど予約の方優先ですからどうぞとすんなり通された。結局終電間際まで店にいて、それぞれの帰路に着いた。上中下、三つの茶屋をはしごした後水尾院の熱意にはさすがにかなわなかったなと気付いた。


2023年11月17日金曜日

夜更けの音楽隊 〜洋菓子ボンフーレとブレーメン・ホームベーカリー〜

 神奈川の伊勢原から、京都の岩倉に引っ越して、3週間が経つ。新しい職場まで川沿いの桜並木の紅葉を眺めながら徒歩で20分余り、しばらくぶりの関西圏での暮らしは、話し言葉の端々にぎこちなさはまだまだ抜けないけれど、少しずつ生活がリズムを刻みだしている。

 伊勢原の町では、ボンフーレと言う名の、お気に入りの老舗の洋菓子屋さんがあって、週末毎のジョギングがてらに寄ると、店のマスターと女将さんが親身に僕の話を聞いてくれた。そしてマスターは、このケーキがいかに素材を吟味し精魂込めて作っているかを僕に語りかけ、女将さんの言葉からは、裏方で店の手伝いに励む三人娘たちへの愛おしさが、常に感じられた。

 身寄りのない土地での二年半だったけれど、遠い親戚ぐらいの、この店での距離感に、安心させられた。転職で僕が引っ越すことに決まり、荷造り用のダンボールが足りなくなって、店に何度ももらいにいったっけ。

 そして今、この岩倉の街には、五十年近く続くパン屋さんがある。朝の通勤路で店の前を通りすがると、ガラス越しにすでにたくさんの種類のパンが並び、かぐわしい香りを通りにまで漂わせている。休みの日に僕はマイバッグを手に店に立ち寄って、今週の朝食用の食パンを選び、そのついでに、たくさんある菓子パンの中から一つだけ、これはと言うものを選ぶのが楽しみだ。そうすると、ちょうど総額が400円を超えて(食パンだけだと規定金額に達しない!)、ポイントカードにトトロを象ったスタンプを押してくれる。(娘さんがジブリファンらしい!!)

 たまに女将さんが、ちょっとしたおまけのパンをくれたりもする。僕は店の壁に掛けられた油絵を見て、これはいい絵ですねと、褒めたりする。主人が習ってもないのに休みの日に描いたのよと、嬉しそうに彼女は話し、どおりで、この店の良さが出ているなって思いましたよと、僕は応える。

 この店の名前は、ブレーメン。そう、グリム童話の音楽隊の名。年老いたロバが、音楽家になることを願い、ブレーメンを目指して旅に出る。道中で、同じように年老いた犬、猫、食べられそうになった鶏と出会い、最初に目指した思惑とは異なるけれど、力を合わせて、居心地の良い場所を手に入れるまでの話・・・

 短くなった日が暮れて、仕事帰りの道すがら見かけた、店先のショウウインドに映るこの影は、何十年と変わらず、この街に住む誰かの夜更けとともに、ここにあったのだろう。目指していく先にあるものではなく、その過程でいつしか住まった場所や出会った人がいる。新しくこの街に音楽家(のようなもの?)を目指してやってきた僕は、そのかけがえのないものたちを、見過ごさないようにしていたい。

2023年9月22日金曜日

仲間たちの部屋 〜葛西臨海水族園・展望棟より〜

 同じ職場にいる四十を過ぎて独身のYが団地をフルリフォームして最近住みだした。構造的に残さざるをえないコンクリート壁を部屋の中心にあえて打放しのまま残し、それと直行する壁面に間接照明を仕込み、照らされる天井は穴一つ開けずにおおらかな綺麗な面を保っている。通常部屋は間仕切るものだが、ここではスペースを区切らず領域を並べ、つながりを残している。

 いいモテ部屋があるんだしたこ焼きでもしながら集まろうとYに話したら、ここは俺の設計ポリシーが詰まっているんだ、モテ部屋なんて呼ばせないと彼は本気でいい募った。そこまで憤慨するに足るYの無意識にはあえて言及せず、写真を持ち寄ってフリートークの会を催してはどうかと、建築の楽しさを共有すれば職場の同僚たちとも通じるものが生まれるんじゃないかと話し合い、めぼしいメンバーに声がけした。結局その日に集まったのは家主のYと僕だけで、それでもせっかく持ち寄ったのだからと、短いスライド会を二人きりで開いた。

 Yは彼が学生だった頃に見て回ったイギリスの城や町並み、今では歴史となったが当時は現代建築だったオランダのOMAによるパブリックセンターやドイツのギゴン&ゴヤーの美術館、スイスのペーター・ツムトアの教会を取り上げ、その魅力を熱く語ってくれた。僕は閉園予定のニュースが出ていた葛西臨海水族園の話をしたいと思ったが、手元には四半世紀前に撮ったポジフィルムしかなく、久しぶりに夏休みでごった返す臨海公園に足を延ばした。


 京葉線の葛西臨海公園駅のホームからは、ドーム型と直方体型の二つのガラス製キューブが、見渡す視界の大半を覆った木々の合間に顔を覗かせる。ガラスドームの地下には水族館があり、横長の直方体には展望スペースと半地下には喫茶が設けられている。

 駅を出て海に向かう緩い勾配のついた並木道の先にガラスの展望棟が門型に構える。くぐり抜けるとその先は水平線が展け、波打ち際には東京二十三区で唯一の海水浴場がある。この公園は埋め立てられた土地だから、この坂道は計画されたもので、そのままフラットで海まで続けてよかったはずだ。わざわざ起伏をつけたのは何かしらの意図があるはずだが、約八十ヘクタールにわたる大規模な公園のことだから、誰か一人の思いというわけでもないのだろう。けれどその時僕の脳裏を掠めたのは、ストックホルムにあるアスプルンドという建築家が設計した森の墓地で、そこではランドスケープの勾配やそこに立つ十字架や火葬場や墓石やベンチのレイアウトにまで設計者の意図が浸透しており、そこを歩けば、遠くに旅立つ人を見送る時にふさわしい繊細な間合いが、自然に生まれるよう調整されていると感じる。身近だった人の死を受け入れようとする人に、空間が不躾ではないようにとの配慮がそこにはあった。それと趣は違うけれど共通して響く作り手の意志が、この公園にも通底していることは間違いないように思われた。

 東京湾はもともと潮干狩りもでき海苔の養殖も盛んだったが、近代化で埋め立て地が広がる中で、ここが最後に残された貴重な自然干潟となった。野鳥が飛来する湿地を保存するラムサール条約にも登録されている。ガラス張りの直方体内部のスロープで上階まで歩いていけば、普段より高い視点で東京港最後の海岸線を望むことができる。人の視点は、水平にいくら移動しても大して様変わりしないが、垂直方向の移動で劇的に世界は変化を遂げる。見ているものは同じ景色でも、おそらく鳥は自由に空を飛ぶことで、その変化を楽しんでいるのではないだろうか。

 クリスタルビューと名付けられたこの展望施設は、外壁が全てガラスで覆われている。その中のスロープを歩くことで、建物は変化しなくても、移動しながら捉える空間の縦横比は目まぐるしく変貌する。形は変わらないのに、歩く行為がその空間をドラマチックに演出する。そして方向転換を促す踊り場は、見せ場となる舞台装置となる。そこでは上下階が吹き抜けを介して連続しながらシーンを百八十度転換させる。先ほどまで見ていた景色を真逆の方向から見返すことで、この世界には自分だけの見方でない別の視点があるのだと知る。行き交う人が、もともとは自身と同じ立場にいて、彼らはかつての自分だったのかもしれない。上から見下ろしていた人々を、いずれ自分が見上げることになるのは自然の摂理なのだと知る。この建物では、人が鳥になれる。

 建物を出て外からこのガラスの箱を眺めれば、そこにはかつての自分と大して違わない分身とも呼べる人間がいて、ガラス越しには鳥が、水辺には魚や貝たちが、背景には森があり虫たちがいて、何も特別なものなどありはしない、誰しもが同等にそこに並んでいる事実に出会う。見方を自在に変化させられるならば、全てがかけがえない存在なのだと気づく。


 Yは感想を挟むでもなく、ただ自立型の液晶ディスプレイを、柿の種をほおばりながら眺めている。

「それでは次に、水族園の方に足を向けましょう。入り口の八角形平面のガラスドーム以外は、この施設は地下に埋められています。陸地にあるものはほんのわずかで海まで含めれば我々の住む世界はほとんど目に見えていないのだという世界の縮図を、設計者が見立てていたのかまでは分かりませんが…」

 四、五層分の高さのあるガラスドームは入れ子構造を持つ。外界の海を望みつつ、その手前に浅い池で水面を作る。その二つの水面の間の区切りを曖昧とさせて、あたかも永遠の広がりがここからこの先ずっと続くかのように感じさせる。

 外側のガラスの覆いの下に一回り小さく八角形に壁が立つ。その壁の上に日除けの板が一辺置きに斜めに四枚架けられ、納屋のようなプロポーションの多面体を構成している。ドームの真ん中に立って見上げると斜めに架け渡された四枚の日除け板が、その頂辺を寄せ合うことで大きな正方形の開口と四つの正三角形の穴を天空に向けて展く。ガラスドームがその上で雨をしのいでいるから、それらの開口にガラスは嵌め込まれていない。風と日差しをしのぎながら、この鳥籠は誰しもの行き来を妨げない。姿は見えずとも鳥たちが発した声、海からの風の轟き、水面が跳ね返す日差しの波紋は、折り重なって多面体を乱反射し、やがてここでしか聴くことのできない響きとなる。

 このドームは、日常に溢れているけれど普段聞き過ごしてしまっている音のかけらを捕まえて培養し、特異な印象を残す装置だとしたらどうだろう。いずれ僕らはこの場所から立ち去り、消えてなくなることは避けられない。そうだとしても、ここで生み出されている残響は、途切れることはない。誰も聞く人がいなくなったとしても、このドームは行き交う様々な波を増長させて、この世界の美しさを表出し続ける。


 Yは唯一の聴講者としてそこにいて、画面に興味なさげな視線を漂わせているけれども、YであってYではない視線を意識しながら、僕は話を続ける。

「地下へは、エントランスホールの中心からエスカレーターで下っていきます。明るさに満たされた場所から海に潜っていくかのように暗がりへと向かうこのシチュエーションは、人気の高かった連ドラのロケでも使われ、馴染みあるかもしれません。極端に照度を落とし、水槽だけが上からの光で照らされて浮かび上がる様子は、暗がりの中の映画館のスクリーンを連想させます。この水族館の見せ場はマグロが行き止まりなく回遊する円柱状の水槽で、そのシリンダーを外からだけでなく内側からも眺められる空間構成が特異です。さらにシリンダーの内側の床は舞台の観客席にもなる階段形式になっており、観覧者の通過に急かされることなく、ゆっくり佇んで魚たちの動向を見守ることができます。水槽を介して外から内へと反転するこの視点の切り替わりによって、僕らが魚を見ているのか逆に魚に見られているのかと、自分の立ち位置があやふやになり、やがてこの建物自体が海に沈んだ潜水艦で、泳いでいる魚の方が本当は自由で、囚われているのは自分たちなのではないかとかの錯覚に襲われもします」


「それでは、外に出てみましょう。てっきり地下に潜っていたものだと思いきや、海に面した側は半地下でそのまま地上に出られる円形の壁に囲われています。屋外には水辺の岩場にペンギンたちが群れをなしています。岩場から水面につながる断面の勾配を見られるよう、観覧者側の地面が彫り込まれています。階段で下に降りれば、ペンギンたちが水に飛び込む様子をガラス越しに眺められます」

「広場から建物を見ると建物の外壁は弧を描いています。奥へ続いていく壁面を目で追っていくと壁はやがて見えなくなり、代わりに視点の高さに水面が現れてきます。壁は海に直接面して建っているかのようにも見えますが、実際はこの水面は海を模した人工の池です。けれどもこの先でいずれ海につながっていくだろうことが暗示されています。この建物の入口で一度潜って周回しながら水槽を眺めてきたのと同じように、見えないけれど今立っているこの陸地が海面の下へと紛れもなく続いている、そのことがおのずと理解できるよう構成されています」

「見えているものはほんの表面に過ぎなく、その断面を想像するなら、陸地は水平線で断絶などしておらずどこまでも一つの面で、そこに区切りや線などはないのだという、当たり前のことが腑に落ちます。たとえ目の前に立ちはだかる仕切りがあったとしても、今自分が立つこの場所は水平線に象徴される永遠の先にまで続いているのだと、その深い縁は光が届かず秘されているけれど多様な生物がうごめいており、与り知らないこの世界を誰に掲示するのでなく黙々と運営しているのだと、朝が来て日に照らされ始めた街がまだ黒々としていても、その輪郭の下では人々がまだ寝床にいて、鳥の声を浅い眠りとともに耳にしているのだと、仲間たちとテーブルを囲んで語らいこの部屋の輪郭を震わせた、あの日のこだまを今も聞こうとしているのだと、僕らはすでに知っているのです」

2011年10月12日水曜日

全生園となつかしさ

 建設中の現場を巡回した帰途、駅までの道すがら同行していた同僚が付近に土地勘があり近道として選んだのは、国立ハンセン病療養所・多摩全生園を通り抜ける道でした。
 
 住宅の開発が進む東京のなかで比較的緑の豊富な東村山市にあって、約3万本と際立つ植樹の豊富さと約35ヘクタールの敷地に建てられた平屋建ての連棟長屋は、昭和初期の日本の街並みを思い起こさせます。
 1996年のらい予防法の撤廃からまだ15年、そんな身近な時代にここで強制収容が行われ様々な悲劇が生まれていたことを、今この場所で想像するのはたやすくありません。
 隣棟間隔が大きいためしっかり土地に届く太陽とそれを受け止める緑、簡素であっても長く愛着をもって住まわれている家々が生み出す穏やかな時間をここでは感じとれます。
 休日には付近に住む家族が公園として憩い、春には桜の名所として集う人々も数多いと聞きます。
 ここでの時間の流れをとても緩やかに感じるのはなぜでしょうか?
 
 この場所を訪れた宮崎駿氏は巨きな桜の木の生命力に圧倒されたといいます。(2002/4/20朝日新聞朝刊「全生園の灯り」)
 これに近い感覚を別の場所で感じることもあります。埼玉であれば松原団地のような住宅整備公団が建てたコンクリート造の団地が立ち並ぶ場所には必ず同じく樹齢を重ねた立派な木が佇んでいます。建物は老朽化するなかで合い反して緑はより生を謳歌しています。建築計画に沿った日照時間を確保する隣棟間隔が生み出す配置は、緑に対して確実に効果を発揮したことを証明しています。ただしそれらを管理しているのはそこに住む住人ではなく、管理する側から依頼された人々です。そこには残念ながら生き生きとした住まいと自然の関係性は持続していません。
 一方全生園には、自治会の中に緑化委員があり「一人一木運動」があったほどと聞きます。生きた証を緑に残そうとする素朴で強い思いがそこには込められていることでしょう。自然と人が同じ世界を構成する一員という共感意識が生まれていたのではないかと感じます。
 
 もののけ姫に関わっていた頃の宮崎駿が出会った全生園の緑は、人と自然(動物)が「支配するー支配される」といった対立項としてある以前のいにしえの時間軸に近いかたちで生み出されていたからこそ、なつかしさを私たちに覚えさせてくれるのではないでしょうか。

2011年9月27日火曜日

すまいへの愛

 長く愛着をもてる家って、どんなすまいなのでしょう。

 風通しがよくって、明るくて、居心地がよくて、安心感をもてて,などなど数え上げれば、多様な場所と様々な文化がある中で答えは無限に拡散していくようにも思えます。そんな中で私たちは、なるべくならデザイナーとして独りよがりな姿勢は避けたいと願ってすまいを提案しています。誰しもが、新しく建てられたすまいを、我が子の誕生のようにその存在をまるごと承認するかのごとく、自然でさり気ないたたずまいをすまいに与えることができたならと切望します。
 
 それでは、赤ん坊が皆から惜しみなく愛されるのはなぜなのでしょうか。愛くるしい笑顔だから?数々の理由を並べてみても言い尽すことはないことでしょう。ただひとつ確かなことは、赤ん坊はまわりの環境を映し出す鏡だということです。生後一時間に満たない新生児が大人の顔真似をしたという報告もあるようです。赤ん坊は絶対的な自立した存在ではなく、自分を含めた周囲の状況を身体的に受け入れそのまま相手に投げ返し、そこにある関係性をそのままかたちとして定位しています。私たちは生まれてきて間もない赤ん坊を前にして、自らの投影だとは気づかないまま、人類が歩んできた時間の厚みを逆説的に感じているように思えます。

 量の不足が決してあるわけでもないこの国で、それでも住宅に価値があるのだとしたら、私たちはすまいづくりを通して、太古の人類も同じように目の当たりにした家のかたちが立ち上がる風景に出会い、そこで育まれる生活とともにすまいの成長を愛をもって見続けるからかもしれません。

2011年9月23日金曜日

Alle Erde 全地~神奈川県立近代美術館 葉山より~

  御用邸に近い旧高松宮邸跡には,神奈川県立近代美術館 葉山が建設されています。南西の一色海岸から北の三ヶ岡山に向けて広がるL字形のオープンスペースに面したこの美術館で、60年の歴史ならではの「現代美術の展開」というコレクション展が10/2まで開催されています。
 海外作品による企画展が震災により困難となりその代わりの展示ではありましたが、今あるこの現状から何が発見できるのか、主催者側鑑賞者側の双方が問われることとなり、場所と歴史を内省させる静かながらも骨太な内容でした。

 中でもアブラハム・デイヴィッド・クリスチャンによる、「Alle Erde 全地」をテーマとした作品群は秀逸な印象を与えてくれます。紙と鉛筆と土、素朴な材料を使いながらも、精神の核心まで世界の手応えを届けようとする彫刻やドローイングの試みは、ニューヨーク、デュッセルドルフ、葉山を創作の場としている作者ならではの場所に対する鋭敏な感性を伝えてくれます。葉山という土地に根ざしたからこそ成立したかに感じられるこの美のかたちが、もし別の場所に展示されていたならどんな風に受け止められるのでしょうか。

 ‘世界’と呼んでみても、そこに万人がある共通のイメージを抱くことは少なくなってきている時代かもしれません。それでもかろうじて身近に触れ共感しやすい土や紙を使いながら、単純明快な美を彼は構成しているかに見えます。
 Alle Erdeの中のひとつ’アフリカは世界である’と題されたオイルスティックと紙によるシンプルで力強い筆跡からは、たまたまわたしたちがいるこの場所から世界は地続きなんだという、当たり前といえば当たり前の、決してお仕着せではない驚きが伝わってくるのです。

2011年9月9日金曜日

幻の美術館~清春芸術村と谷口吉郎~

 同人誌・白樺のなかで「いくら小さくても気持ちのいい、本物のわかる人が見て喜んでくれる美術館を建てたく思う・・」と綴ったのは武者野小路実篤です。それに共感した吉井長三氏により実現された美術館が山梨の長坂にあります。
 
 そこは清春芸術村と呼ばれ、著名なデザイナーによりいくつかの美術館・アトリエ・図書館などの文化施設が建設されています。谷口吉生・吉田五十八・安藤忠雄・藤森照信といったスター建築家による建物をより魅力的に見せる基本設計は谷口吉郎氏と聞きます。
 
 敷地は廃校になった木造の小学校があった比較的小高い場所です。そのためか、建物の配置は元の校庭らしき広場に並ぶ群と、少し段差をつけた校舎跡に並ぶ群とに分かれます。前者はそれぞれの建物に序列がなく彫刻を並べるように配置され、後者は建築計画的に建物の関係性を意識した配置となっています。校庭での遊びのルールは子供たちの自主性にまかせ、教室では模範となる規律を示しているとでもいえましょうか。
 
 谷口吉郎氏が遺した意図は、学校という場が持つ空間構成とそこで営まれる社会活動を抽出することであったように感じられます。空間とアクティビティとの相関関係を客観的に描写することで、芸術村自体がひとつの学校、ひとつの美術館、ひとつの社会と見立てる視線を獲得できるかもしれません。その先に、社会そのものが自立した美を体現する個人や組織の集合体にいつかなりうるという希求がこめられているようにも思えるのです。

2011年8月14日日曜日

記憶の再生産〜カフェという場所〜

 あるカフェから眺める藤棚とプールが鎌倉を訪れる楽しみのひとつとなっています。

 鎌倉駅から西に三分ほど歩くと木造二階屋をリノベーションしたギャラリーヨコがあり、その並びには軒の低さと深さの特異な印象のスターバックス御成町店が位置しています。フクちゃんでお馴染みの漫画家・横山隆一氏の住まいとアトリエがあった場所に、遺族の想い出を残すため保存プロジェクトが起こりました。結果、このスターバックスとギャラリーヨコが生まれ、ふたつの建物に守られる形で藤棚とプールのある小さな庭が公となったそうです。

 設計はこのプロジェクトのために組織されたコトペースという建築デザインチームが行っています。庭に対して軒を下げることで伸びやかなプロポーションをもたせ、軒の出により光の陰影による効果を与え、杉の縁甲板で室内外の軒裏を統一させることで大屋根に包まれる安心感を生み出し、軒先のハイサイドライトから見通せる御成山への借景により街の中での存在を確認できます。

 初めてなのになぜか懐かしい居心地を感じさせてくれたり、いつ来ていつ立ち去っても気兼ねのない公園のようだったりするのがカフェという場所かもしれません。横山家の庭には、良質なカフェがもつ空気感を品格として備えた魅力的な隣人が数多く訪れたことでしょう。
 その記憶が個人の中で薄れていくものだとしても、別の用途や目的で利用されていくのだとしても、場所が自身のもつ可能性を最大限に生かされていくならば、上質な空気感が人々に提供され共感され続けていくのかもしれません。

2011年8月8日月曜日

佐々木敏光〜デザイン=生活〜


 6ヶ月になる我が子のためにと椅子を探していたところ、自分の子に使わせたい家具として佐々木敏光氏がデザインした子供椅子、New BAMBINI が目に留まりました。肘掛けと脚がひとつながりの弧をえがき、それが90度回転することで遊具としての木馬へと変化します。
 
 この椅子を子供の目から眺めたなら、たまたま食事の時に腰掛けるものが椅子とよばれているだけだということに気付かされます。ダイニングテーブルだって宿題をそこですれば勉強机ですし、ソファだってゴロンと横になったまま眠り込んでしまい朝を迎えたならベッドと呼んでもよいのかもしれません。
 
 ひとつの使い勝手に限定されずに、まずそこにある生活を受けとめられるのかが、よい家具の条件のひとつでしょう。モノにどれだけの力があるか、が佐々木氏のものづくりの信条と聞きます。多面的で変化に富んだ生活に向き合いながら、デザイナーという立場からの視点だけでなく、我が子の家具という使い手からの目線があった時初めて、モノが主役として振る舞うことを可能とするダイナミックで活動的な生が育まれるのではないでしょうか。

 デザインという言葉が氾濫している昨今、デザイン⇒生活でも生活⇒デザインでもなくあくまでデザイン=生活という地平を佐々木氏は見据えていたようです。

2011年7月22日金曜日

倉俣史朗とエットレ・ソットサス展~感性の総和が愛~

 六本木ミッドタウンを取り囲む環状の道路のさらに外側にミッドタウンガーデンと呼ばれる緩やかに傾斜した緑地帯があります。その一角にいくつかの三角形を組み合わせた隙間がたまたま展示スペースになったかの印象をあたえる美術館21_21DESIGN SIGHTがあります。ここで7/18まで倉俣史朗とエットレ•ソットサス展が開催されていました。
 倉俣史朗、エットレ•ソットサス共に1980年から90年代にかけて活躍したデザイナーで、没後もその独自性のある感性が今も世界中の幅広い世代に刺激を与えている希有な存在です。
 倉俣氏は1996年の巡回展が記憶に新しいかもしれませんが、ソットサス氏は知名度に比べその建築からインダストリアルデザインにわたる広範囲な作品群はまだ詳述されていないかもしれません。この二人の出会いは、ソットサス氏がメンフィスと名付けられたデザイン運動への参加を手紙で倉俣氏に呼びかけたことがきっかけだそうです。
 今回の企画展の要は、カチナというネイティブアメリカンが信仰の対象としている存在から、ソットサス氏がインスパイアされて残したドローイングをもとに製作されたガラス製の人形群です。地下に展示スペースがあるこの美術館は、明るい地上から薄暗い地下へと階段を降りていく動作により神聖な心持ちを与えられずにはいられないのですが、そこから続く展示スペースの冒頭に20体前後のカチナが並ぶ風景は、この世でもあの世でもなく静止した宙ぶらりんの時間を私たちに印象づけるものでした。ガラスという素材が、物質でありながらも光の反射や透過によってその物質性を背後に追いやっています。水彩の淡い透明感に満たされたドローイングと実在しているオブジェ、機能とフォルムの関係性を生涯にわたり追求したデザイナーが晩年に描いた日常を超越した存在は私たちに何を語りかけているのでしょうか。
 ここでヒントになるのが倉俣氏が残した「感性の総和が愛」ということばです。
 私たちは日常のコミュニケーションの中で不本意にも誤解や軋轢を生じさせてしまうことがあります。その原因は、目の前の事象から読み取れる情報には限界があり、それ以外にも掴み取れなかった多くがまだ残されており、でも私たちが知り得るのはその中のほんの一部だということに気付かずにいるためかもしれません。相対するものから期待されていることを的確に捉え、ひとつ先にあるシーンを描くことができるよう私たちは、世界を受け止める感性を自由な状態に維持しようと努めています。パターン化された思考の枠組みに縛られずに、ひとが生活していくことへの観察や共感や体験のボリュームを蓄積していくことでしか、相手をおもんばかる想像力は手にすることができないのかもしれません。
 世界を目で見えない不確かさをも含めた視野で眺めることの可能性を、ソットサス氏のカチナは問いかけているようでした。

2011年7月3日日曜日

長谷寺~あじさいの秘密~


 たまたま横浜に住んでいたころに紹介された美容院が鎌倉にあり、この度あじさいの時期というのもあって、そのついでに鎌倉の長谷寺を訪れることになりました。
 
 私の生まれた奈良にもあじさいで有名な矢田寺というのがあります。それぞれの土地であじさいの名所があるのかもしれませんが、私にとってはあじさいといえば矢田寺でしょう、と普段は無意識でいるようでもついつい花をもたせたくなるのが故郷のようです。しかし帰り道には、長谷寺かぁどんな程度のものなのかねと感じていたのもおぼろげになるぐらいに貴重な体験ができました。
 
 鎌倉は海と山に隣接した街並みが特徴ですが、長谷寺はそれらが一望できる観音山の裾野から中腹にかけて境内が続いています。切り立った斜面沿いに散策路が設けられているため、目線をあげたり下げたりしなくとも自ずと視界には丁寧に配置された植木が目に留まりやすくなっています。
 そこから次第に視線は斜面を見上げたり見下ろしたりすることになるのですが、今まで経路沿いのアイレベルでみていた花々がその時、狭められた視角のなかで奥行き方向へ同時に見通せることになります。
 さらに、斜面に植えられた2500株のあじさいは標高の低いものほど気温が高いため枯れ始めており、上位のものほど生き生きとしています。その様が傾斜面を雪崩のごとく一挙に目に飛び込んできます。
 そこには遠い近いの距離感覚だけでなく、時間の遠近感、つまり懐かしさや予感といった感覚を刺激する仕掛けが込められているようです。走馬灯と呼ばれる体験が私はありませんが、この身体感覚はおそらくそれに近いものではないでしょうか。
 
 時間は不可逆なものとされていますが、果たしてそうなのでしょうか?私たちは住まいの設計を通じて、日常に潜んでいる身体感覚の可能性を最大限に活用しながら、時間の不可思議さの秘密を少しづつ紐解くことで、いつか家そのものがタイムマシンに変化していくことを期待しています。

2011年6月22日水曜日

~終わらないアトリエ~パウル・クレー展

東京メトロ竹橋駅を後にし皇居の石積みを眺める橋の向こうに東京国立近代美術館はあります。
パウル・クレー(1879~1940)というスイスのベルンという街に生まれた日本でも人気の高い画家の展覧会がここで開催されています。9年前にも全国を巡回する大きな企画展があり、関東では神奈川の近代美術館が会場だったなとなんとか記憶に残っていますが、同じ画家の16年前の機会となると私もまだ学生かと図録の記録に想い返されるのがやっとというところです。

同じ画家の作品展示といってもその時々の時流に沿った形でテーマ設定(9年前は~旅~、16年前は~クレー家秘蔵~でした。)がなされておりキュレーターの視点の差が時代の無意識を反映していたりするところも興味深いところです。
時代ごとの比較を可能にしているのは、クレーの残した作品群がいつ誰にどのような切り採られ方をしてもその時代の問題意識をあぶりだすに足る懐の深い真の情報を有しているからでしょう。そこには本物と呼ばれるものとそうでないものとを隔てる何かが隠されているのかもしれません。

今回の企画は~終わらないアトリエ~というサブタイトルが付いており、画家がその創作の拠点を移していったアトリエの写真やその創作のプロセスに着目した構成となっていました。会場ではクレーが一度描いた絵を切断したり写し取ったり貼り付けたりすることで新たな作品を生み出していたことを懇切に展示しています。これは現代の価値観で眺めるならコピー機やパソコン上での編集作業のようなものかもしれません。しかしその原点には、大地に種を蒔き水をやり成長させて刈り取る、という太古から変わらず人の生活に密着した永続した行為の連鎖があるように感じとれました。たまたま作品として結実したものが形として目の前にあるだけで、その背景にはこまやかに手入れの行き届いた肥沃な土地が広がっていることが想像されるのです。今回の企画展を通じて発見したクレーの創作の秘密は、彼は作品を作ろうとしたのではなく、まず世界をつくろうとしていたということでした。

わたしたちが素敵だなと思うものは、いつの時代にもその価値を新しく再発見させるような自立した世界観をもっています。宮崎駿のアニメの世界の登場人物が世界中の子供たちの想像力によって日々成長していくように、その世界観はその中に現実の世界と対等に比較できるぐらいの存在感を持っています。そんな世界を生み出すのは並大抵のことではないことは、現実の世界が予測不可能で不確定な危険も抱えておりそれらも含めてひとつの世界を生みす覚悟があるのかと問いかけてみれば分かります。

クレーの絵は、何かが正しくて何かが間違っているといった恩着せがましいモラルや常識とは一線を画し、その場その場で世界の不可思議と対峙しながら毎日を発見していく技術を私たちに伝えてくれているようでした。

2011年6月16日木曜日

daily ware ~イイホシユミコ作品展~

東急自由が丘駅から徒歩10分ほどの緑ヶ丘という街に、yumiko iihoshi porcelain という名のアトリエ兼ショップがあります。ここで6/11~ 6/19まで磁器作家のイイホシユミコさんの作品展が開かれています。

手作りとプロダクトの境界にある作品を作りたいというイイホシさんの姿勢は、わたしたちが所属しているスターディ・スタイルの、設計事務所とハウスメーカーの間にある住まいづくりのスタンスにも共鳴するところが多々あるように感じていました。

その凛とした圧倒的な空気感を発する磁器作品には、鎌倉のオクシモロンというカレー屋さんやスパイラルマーケットといった雑貨屋さんで何度か出会ってはいました。それらは基本的に大量生産を前提としたプロダクト作品でしたが、今回の展示会では、はじめて手作りの作品をみることができました。一品物のデザインがえてして作家性という手垢を作品に残してしまったり、効率やつくり手の利益を優先したプロダクトが使い手に長く愛されなかったりすることへの違和感が創作の原点にあるのだそうです。

その時代の流行や特定の理念にこだわるのではなく、そこに立ち上がる生活のシーンを名づけることをきっかけとして作品が生まれるとも聞きます。今回印象にもっとも残った作品は「冬の日」という名の、縁に放射状の模様が入っている懐の深いスープ皿です。上質な小説や映画がもつ自立した世界観がそこには確かにありました。

今回の展示会名でもあるdaily wareという名の器を妻は購入しました。今わが家のチェストの上にあるのですが、これが驚くことに自宅で眺めたほうがお店で見たときよりよく見えるのです。普段住まいの設計をしているなかで注意するのは、たいていショウルームで見たときにいいなと思って実際使ってみても、なかなかお店で見た印象にはならないことです。販売側の定着させているイメージは実際にそのまま個別の住まいにあてはまらないからなのですが、想像力を働かせて姿かたちのまだないシーンを思い描くことはなかなか難しいようです。

この展示会のためのポストカードにこんな内容のメッセージがありました。人の想いが浮かび上がるように食器だけを展示することが多かったのが、震災後食事をすることのかけがえのなさを感じ、うつわにまつわるものも含めて今回は提案したそうです。

日々人々が何気なく繰り広げている日常の行為の積み重ねが互いを理解する手助けになるという確信を強く感じる展示でした。