2023年9月22日金曜日

仲間たちの部屋 〜葛西臨海水族園・展望棟より〜

 同じ職場にいる四十を過ぎて独身のYが団地をフルリフォームして最近住みだした。構造的に残さざるをえないコンクリート壁を部屋の中心にあえて打放しのまま残し、それと直行する壁面に間接照明を仕込み、照らされる天井は穴一つ開けずにおおらかな綺麗な面を保っている。通常部屋は間仕切るものだが、ここではスペースを区切らず領域を並べ、つながりを残している。

 いいモテ部屋があるんだしたこ焼きでもしながら集まろうとYに話したら、ここは俺の設計ポリシーが詰まっているんだ、モテ部屋なんて呼ばせないと彼は本気でいい募った。そこまで憤慨するに足るYの無意識にはあえて言及せず、写真を持ち寄ってフリートークの会を催してはどうかと、建築の楽しさを共有すれば職場の同僚たちとも通じるものが生まれるんじゃないかと話し合い、めぼしいメンバーに声がけした。結局その日に集まったのは家主のYと僕だけで、それでもせっかく持ち寄ったのだからと、短いスライド会を二人きりで開いた。

 Yは彼が学生だった頃に見て回ったイギリスの城や町並み、今では歴史となったが当時は現代建築だったオランダのOMAによるパブリックセンターやドイツのギゴン&ゴヤーの美術館、スイスのペーター・ツムトアの教会を取り上げ、その魅力を熱く語ってくれた。僕は閉園予定のニュースが出ていた葛西臨海水族園の話をしたいと思ったが、手元には四半世紀前に撮ったポジフィルムしかなく、久しぶりに夏休みでごった返す臨海公園に足を延ばした。


 京葉線の葛西臨海公園駅のホームからは、ドーム型と直方体型の二つのガラス製キューブが、見渡す視界の大半を覆った木々の合間に顔を覗かせる。ガラスドームの地下には水族館があり、横長の直方体には展望スペースと半地下には喫茶が設けられている。

 駅を出て海に向かう緩い勾配のついた並木道の先にガラスの展望棟が門型に構える。くぐり抜けるとその先は水平線が展け、波打ち際には東京二十三区で唯一の海水浴場がある。この公園は埋め立てられた土地だから、この坂道は計画されたもので、そのままフラットで海まで続けてよかったはずだ。わざわざ起伏をつけたのは何かしらの意図があるはずだが、約八十ヘクタールにわたる大規模な公園のことだから、誰か一人の思いというわけでもないのだろう。けれどその時僕の脳裏を掠めたのは、ストックホルムにあるアスプルンドという建築家が設計した森の墓地で、そこではランドスケープの勾配やそこに立つ十字架や火葬場や墓石やベンチのレイアウトにまで設計者の意図が浸透しており、そこを歩けば、遠くに旅立つ人を見送る時にふさわしい繊細な間合いが、自然に生まれるよう調整されていると感じる。身近だった人の死を受け入れようとする人に、空間が不躾ではないようにとの配慮がそこにはあった。それと趣は違うけれど共通して響く作り手の意志が、この公園にも通底していることは間違いないように思われた。

 東京湾はもともと潮干狩りもでき海苔の養殖も盛んだったが、近代化で埋め立て地が広がる中で、ここが最後に残された貴重な自然干潟となった。野鳥が飛来する湿地を保存するラムサール条約にも登録されている。ガラス張りの直方体内部のスロープで上階まで歩いていけば、普段より高い視点で東京港最後の海岸線を望むことができる。人の視点は、水平にいくら移動しても大して様変わりしないが、垂直方向の移動で劇的に世界は変化を遂げる。見ているものは同じ景色でも、おそらく鳥は自由に空を飛ぶことで、その変化を楽しんでいるのではないだろうか。

 クリスタルビューと名付けられたこの展望施設は、外壁が全てガラスで覆われている。その中のスロープを歩くことで、建物は変化しなくても、移動しながら捉える空間の縦横比は目まぐるしく変貌する。形は変わらないのに、歩く行為がその空間をドラマチックに演出する。そして方向転換を促す踊り場は、見せ場となる舞台装置となる。そこでは上下階が吹き抜けを介して連続しながらシーンを百八十度転換させる。先ほどまで見ていた景色を真逆の方向から見返すことで、この世界には自分だけの見方でない別の視点があるのだと知る。行き交う人が、もともとは自身と同じ立場にいて、彼らはかつての自分だったのかもしれない。上から見下ろしていた人々を、いずれ自分が見上げることになるのは自然の摂理なのだと知る。この建物では、人が鳥になれる。

 建物を出て外からこのガラスの箱を眺めれば、そこにはかつての自分と大して違わない分身とも呼べる人間がいて、ガラス越しには鳥が、水辺には魚や貝たちが、背景には森があり虫たちがいて、何も特別なものなどありはしない、誰しもが同等にそこに並んでいる事実に出会う。見方を自在に変化させられるならば、全てがかけがえない存在なのだと気づく。


 Yは感想を挟むでもなく、ただ自立型の液晶ディスプレイを、柿の種をほおばりながら眺めている。

「それでは次に、水族園の方に足を向けましょう。入り口の八角形平面のガラスドーム以外は、この施設は地下に埋められています。陸地にあるものはほんのわずかで海まで含めれば我々の住む世界はほとんど目に見えていないのだという世界の縮図を、設計者が見立てていたのかまでは分かりませんが…」

 四、五層分の高さのあるガラスドームは入れ子構造を持つ。外界の海を望みつつ、その手前に浅い池で水面を作る。その二つの水面の間の区切りを曖昧とさせて、あたかも永遠の広がりがここからこの先ずっと続くかのように感じさせる。

 外側のガラスの覆いの下に一回り小さく八角形に壁が立つ。その壁の上に日除けの板が一辺置きに斜めに四枚架けられ、納屋のようなプロポーションの多面体を構成している。ドームの真ん中に立って見上げると斜めに架け渡された四枚の日除け板が、その頂辺を寄せ合うことで大きな正方形の開口と四つの正三角形の穴を天空に向けて展く。ガラスドームがその上で雨をしのいでいるから、それらの開口にガラスは嵌め込まれていない。風と日差しをしのぎながら、この鳥籠は誰しもの行き来を妨げない。姿は見えずとも鳥たちが発した声、海からの風の轟き、水面が跳ね返す日差しの波紋は、折り重なって多面体を乱反射し、やがてここでしか聴くことのできない響きとなる。

 このドームは、日常に溢れているけれど普段聞き過ごしてしまっている音のかけらを捕まえて培養し、特異な印象を残す装置だとしたらどうだろう。いずれ僕らはこの場所から立ち去り、消えてなくなることは避けられない。そうだとしても、ここで生み出されている残響は、途切れることはない。誰も聞く人がいなくなったとしても、このドームは行き交う様々な波を増長させて、この世界の美しさを表出し続ける。


 Yは唯一の聴講者としてそこにいて、画面に興味なさげな視線を漂わせているけれども、YであってYではない視線を意識しながら、僕は話を続ける。

「地下へは、エントランスホールの中心からエスカレーターで下っていきます。明るさに満たされた場所から海に潜っていくかのように暗がりへと向かうこのシチュエーションは、人気の高かった連ドラのロケでも使われ、馴染みあるかもしれません。極端に照度を落とし、水槽だけが上からの光で照らされて浮かび上がる様子は、暗がりの中の映画館のスクリーンを連想させます。この水族館の見せ場はマグロが行き止まりなく回遊する円柱状の水槽で、そのシリンダーを外からだけでなく内側からも眺められる空間構成が特異です。さらにシリンダーの内側の床は舞台の観客席にもなる階段形式になっており、観覧者の通過に急かされることなく、ゆっくり佇んで魚たちの動向を見守ることができます。水槽を介して外から内へと反転するこの視点の切り替わりによって、僕らが魚を見ているのか逆に魚に見られているのかと、自分の立ち位置があやふやになり、やがてこの建物自体が海に沈んだ潜水艦で、泳いでいる魚の方が本当は自由で、囚われているのは自分たちなのではないかとかの錯覚に襲われもします」


「それでは、外に出てみましょう。てっきり地下に潜っていたものだと思いきや、海に面した側は半地下でそのまま地上に出られる円形の壁に囲われています。屋外には水辺の岩場にペンギンたちが群れをなしています。岩場から水面につながる断面の勾配を見られるよう、観覧者側の地面が彫り込まれています。階段で下に降りれば、ペンギンたちが水に飛び込む様子をガラス越しに眺められます」

「広場から建物を見ると建物の外壁は弧を描いています。奥へ続いていく壁面を目で追っていくと壁はやがて見えなくなり、代わりに視点の高さに水面が現れてきます。壁は海に直接面して建っているかのようにも見えますが、実際はこの水面は海を模した人工の池です。けれどもこの先でいずれ海につながっていくだろうことが暗示されています。この建物の入口で一度潜って周回しながら水槽を眺めてきたのと同じように、見えないけれど今立っているこの陸地が海面の下へと紛れもなく続いている、そのことがおのずと理解できるよう構成されています」

「見えているものはほんの表面に過ぎなく、その断面を想像するなら、陸地は水平線で断絶などしておらずどこまでも一つの面で、そこに区切りや線などはないのだという、当たり前のことが腑に落ちます。たとえ目の前に立ちはだかる仕切りがあったとしても、今自分が立つこの場所は水平線に象徴される永遠の先にまで続いているのだと、その深い縁は光が届かず秘されているけれど多様な生物がうごめいており、与り知らないこの世界を誰に掲示するのでなく黙々と運営しているのだと、朝が来て日に照らされ始めた街がまだ黒々としていても、その輪郭の下では人々がまだ寝床にいて、鳥の声を浅い眠りとともに耳にしているのだと、仲間たちとテーブルを囲んで語らいこの部屋の輪郭を震わせた、あの日のこだまを今も聞こうとしているのだと、僕らはすでに知っているのです」