2011年7月22日金曜日

倉俣史朗とエットレ・ソットサス展~感性の総和が愛~

 六本木ミッドタウンを取り囲む環状の道路のさらに外側にミッドタウンガーデンと呼ばれる緩やかに傾斜した緑地帯があります。その一角にいくつかの三角形を組み合わせた隙間がたまたま展示スペースになったかの印象をあたえる美術館21_21DESIGN SIGHTがあります。ここで7/18まで倉俣史朗とエットレ•ソットサス展が開催されていました。
 倉俣史朗、エットレ•ソットサス共に1980年から90年代にかけて活躍したデザイナーで、没後もその独自性のある感性が今も世界中の幅広い世代に刺激を与えている希有な存在です。
 倉俣氏は1996年の巡回展が記憶に新しいかもしれませんが、ソットサス氏は知名度に比べその建築からインダストリアルデザインにわたる広範囲な作品群はまだ詳述されていないかもしれません。この二人の出会いは、ソットサス氏がメンフィスと名付けられたデザイン運動への参加を手紙で倉俣氏に呼びかけたことがきっかけだそうです。
 今回の企画展の要は、カチナというネイティブアメリカンが信仰の対象としている存在から、ソットサス氏がインスパイアされて残したドローイングをもとに製作されたガラス製の人形群です。地下に展示スペースがあるこの美術館は、明るい地上から薄暗い地下へと階段を降りていく動作により神聖な心持ちを与えられずにはいられないのですが、そこから続く展示スペースの冒頭に20体前後のカチナが並ぶ風景は、この世でもあの世でもなく静止した宙ぶらりんの時間を私たちに印象づけるものでした。ガラスという素材が、物質でありながらも光の反射や透過によってその物質性を背後に追いやっています。水彩の淡い透明感に満たされたドローイングと実在しているオブジェ、機能とフォルムの関係性を生涯にわたり追求したデザイナーが晩年に描いた日常を超越した存在は私たちに何を語りかけているのでしょうか。
 ここでヒントになるのが倉俣氏が残した「感性の総和が愛」ということばです。
 私たちは日常のコミュニケーションの中で不本意にも誤解や軋轢を生じさせてしまうことがあります。その原因は、目の前の事象から読み取れる情報には限界があり、それ以外にも掴み取れなかった多くがまだ残されており、でも私たちが知り得るのはその中のほんの一部だということに気付かずにいるためかもしれません。相対するものから期待されていることを的確に捉え、ひとつ先にあるシーンを描くことができるよう私たちは、世界を受け止める感性を自由な状態に維持しようと努めています。パターン化された思考の枠組みに縛られずに、ひとが生活していくことへの観察や共感や体験のボリュームを蓄積していくことでしか、相手をおもんばかる想像力は手にすることができないのかもしれません。
 世界を目で見えない不確かさをも含めた視野で眺めることの可能性を、ソットサス氏のカチナは問いかけているようでした。

2011年7月3日日曜日

長谷寺~あじさいの秘密~


 たまたま横浜に住んでいたころに紹介された美容院が鎌倉にあり、この度あじさいの時期というのもあって、そのついでに鎌倉の長谷寺を訪れることになりました。
 
 私の生まれた奈良にもあじさいで有名な矢田寺というのがあります。それぞれの土地であじさいの名所があるのかもしれませんが、私にとってはあじさいといえば矢田寺でしょう、と普段は無意識でいるようでもついつい花をもたせたくなるのが故郷のようです。しかし帰り道には、長谷寺かぁどんな程度のものなのかねと感じていたのもおぼろげになるぐらいに貴重な体験ができました。
 
 鎌倉は海と山に隣接した街並みが特徴ですが、長谷寺はそれらが一望できる観音山の裾野から中腹にかけて境内が続いています。切り立った斜面沿いに散策路が設けられているため、目線をあげたり下げたりしなくとも自ずと視界には丁寧に配置された植木が目に留まりやすくなっています。
 そこから次第に視線は斜面を見上げたり見下ろしたりすることになるのですが、今まで経路沿いのアイレベルでみていた花々がその時、狭められた視角のなかで奥行き方向へ同時に見通せることになります。
 さらに、斜面に植えられた2500株のあじさいは標高の低いものほど気温が高いため枯れ始めており、上位のものほど生き生きとしています。その様が傾斜面を雪崩のごとく一挙に目に飛び込んできます。
 そこには遠い近いの距離感覚だけでなく、時間の遠近感、つまり懐かしさや予感といった感覚を刺激する仕掛けが込められているようです。走馬灯と呼ばれる体験が私はありませんが、この身体感覚はおそらくそれに近いものではないでしょうか。
 
 時間は不可逆なものとされていますが、果たしてそうなのでしょうか?私たちは住まいの設計を通じて、日常に潜んでいる身体感覚の可能性を最大限に活用しながら、時間の不可思議さの秘密を少しづつ紐解くことで、いつか家そのものがタイムマシンに変化していくことを期待しています。

2011年6月22日水曜日

~終わらないアトリエ~パウル・クレー展

東京メトロ竹橋駅を後にし皇居の石積みを眺める橋の向こうに東京国立近代美術館はあります。
パウル・クレー(1879~1940)というスイスのベルンという街に生まれた日本でも人気の高い画家の展覧会がここで開催されています。9年前にも全国を巡回する大きな企画展があり、関東では神奈川の近代美術館が会場だったなとなんとか記憶に残っていますが、同じ画家の16年前の機会となると私もまだ学生かと図録の記録に想い返されるのがやっとというところです。

同じ画家の作品展示といってもその時々の時流に沿った形でテーマ設定(9年前は~旅~、16年前は~クレー家秘蔵~でした。)がなされておりキュレーターの視点の差が時代の無意識を反映していたりするところも興味深いところです。
時代ごとの比較を可能にしているのは、クレーの残した作品群がいつ誰にどのような切り採られ方をしてもその時代の問題意識をあぶりだすに足る懐の深い真の情報を有しているからでしょう。そこには本物と呼ばれるものとそうでないものとを隔てる何かが隠されているのかもしれません。

今回の企画は~終わらないアトリエ~というサブタイトルが付いており、画家がその創作の拠点を移していったアトリエの写真やその創作のプロセスに着目した構成となっていました。会場ではクレーが一度描いた絵を切断したり写し取ったり貼り付けたりすることで新たな作品を生み出していたことを懇切に展示しています。これは現代の価値観で眺めるならコピー機やパソコン上での編集作業のようなものかもしれません。しかしその原点には、大地に種を蒔き水をやり成長させて刈り取る、という太古から変わらず人の生活に密着した永続した行為の連鎖があるように感じとれました。たまたま作品として結実したものが形として目の前にあるだけで、その背景にはこまやかに手入れの行き届いた肥沃な土地が広がっていることが想像されるのです。今回の企画展を通じて発見したクレーの創作の秘密は、彼は作品を作ろうとしたのではなく、まず世界をつくろうとしていたということでした。

わたしたちが素敵だなと思うものは、いつの時代にもその価値を新しく再発見させるような自立した世界観をもっています。宮崎駿のアニメの世界の登場人物が世界中の子供たちの想像力によって日々成長していくように、その世界観はその中に現実の世界と対等に比較できるぐらいの存在感を持っています。そんな世界を生み出すのは並大抵のことではないことは、現実の世界が予測不可能で不確定な危険も抱えておりそれらも含めてひとつの世界を生みす覚悟があるのかと問いかけてみれば分かります。

クレーの絵は、何かが正しくて何かが間違っているといった恩着せがましいモラルや常識とは一線を画し、その場その場で世界の不可思議と対峙しながら毎日を発見していく技術を私たちに伝えてくれているようでした。

2011年6月16日木曜日

daily ware ~イイホシユミコ作品展~

東急自由が丘駅から徒歩10分ほどの緑ヶ丘という街に、yumiko iihoshi porcelain という名のアトリエ兼ショップがあります。ここで6/11~ 6/19まで磁器作家のイイホシユミコさんの作品展が開かれています。

手作りとプロダクトの境界にある作品を作りたいというイイホシさんの姿勢は、わたしたちが所属しているスターディ・スタイルの、設計事務所とハウスメーカーの間にある住まいづくりのスタンスにも共鳴するところが多々あるように感じていました。

その凛とした圧倒的な空気感を発する磁器作品には、鎌倉のオクシモロンというカレー屋さんやスパイラルマーケットといった雑貨屋さんで何度か出会ってはいました。それらは基本的に大量生産を前提としたプロダクト作品でしたが、今回の展示会では、はじめて手作りの作品をみることができました。一品物のデザインがえてして作家性という手垢を作品に残してしまったり、効率やつくり手の利益を優先したプロダクトが使い手に長く愛されなかったりすることへの違和感が創作の原点にあるのだそうです。

その時代の流行や特定の理念にこだわるのではなく、そこに立ち上がる生活のシーンを名づけることをきっかけとして作品が生まれるとも聞きます。今回印象にもっとも残った作品は「冬の日」という名の、縁に放射状の模様が入っている懐の深いスープ皿です。上質な小説や映画がもつ自立した世界観がそこには確かにありました。

今回の展示会名でもあるdaily wareという名の器を妻は購入しました。今わが家のチェストの上にあるのですが、これが驚くことに自宅で眺めたほうがお店で見たときよりよく見えるのです。普段住まいの設計をしているなかで注意するのは、たいていショウルームで見たときにいいなと思って実際使ってみても、なかなかお店で見た印象にはならないことです。販売側の定着させているイメージは実際にそのまま個別の住まいにあてはまらないからなのですが、想像力を働かせて姿かたちのまだないシーンを思い描くことはなかなか難しいようです。

この展示会のためのポストカードにこんな内容のメッセージがありました。人の想いが浮かび上がるように食器だけを展示することが多かったのが、震災後食事をすることのかけがえのなさを感じ、うつわにまつわるものも含めて今回は提案したそうです。

日々人々が何気なく繰り広げている日常の行為の積み重ねが互いを理解する手助けになるという確信を強く感じる展示でした。