六本木ミッドタウンを取り囲む環状の道路のさらに外側にミッドタウンガーデンと呼ばれる緩やかに傾斜した緑地帯があります。その一角にいくつかの三角形を組み合わせた隙間がたまたま展示スペースになったかの印象をあたえる美術館21_21DESIGN SIGHTがあります。ここで7/18まで倉俣史朗とエットレ•ソットサス展が開催されていました。
倉俣史朗、エットレ•ソットサス共に1980年から90年代にかけて活躍したデザイナーで、没後もその独自性のある感性が今も世界中の幅広い世代に刺激を与えている希有な存在です。
倉俣氏は1996年の巡回展が記憶に新しいかもしれませんが、ソットサス氏は知名度に比べその建築からインダストリアルデザインにわたる広範囲な作品群はまだ詳述されていないかもしれません。この二人の出会いは、ソットサス氏がメンフィスと名付けられたデザイン運動への参加を手紙で倉俣氏に呼びかけたことがきっかけだそうです。
今回の企画展の要は、カチナというネイティブアメリカンが信仰の対象としている存在から、ソットサス氏がインスパイアされて残したドローイングをもとに製作されたガラス製の人形群です。地下に展示スペースがあるこの美術館は、明るい地上から薄暗い地下へと階段を降りていく動作により神聖な心持ちを与えられずにはいられないのですが、そこから続く展示スペースの冒頭に20体前後のカチナが並ぶ風景は、この世でもあの世でもなく静止した宙ぶらりんの時間を私たちに印象づけるものでした。ガラスという素材が、物質でありながらも光の反射や透過によってその物質性を背後に追いやっています。水彩の淡い透明感に満たされたドローイングと実在しているオブジェ、機能とフォルムの関係性を生涯にわたり追求したデザイナーが晩年に描いた日常を超越した存在は私たちに何を語りかけているのでしょうか。
ここでヒントになるのが倉俣氏が残した「感性の総和が愛」ということばです。
私たちは日常のコミュニケーションの中で不本意にも誤解や軋轢を生じさせてしまうことがあります。その原因は、目の前の事象から読み取れる情報には限界があり、それ以外にも掴み取れなかった多くがまだ残されており、でも私たちが知り得るのはその中のほんの一部だということに気付かずにいるためかもしれません。相対するものから期待されていることを的確に捉え、ひとつ先にあるシーンを描くことができるよう私たちは、世界を受け止める感性を自由な状態に維持しようと努めています。パターン化された思考の枠組みに縛られずに、ひとが生活していくことへの観察や共感や体験のボリュームを蓄積していくことでしか、相手をおもんばかる想像力は手にすることができないのかもしれません。
世界を目で見えない不確かさをも含めた視野で眺めることの可能性を、ソットサス氏のカチナは問いかけているようでした。
~ごく自然な~という意味をあらわすeffortless 。 リビング一点豪華主義な住まいよりも, キッチンや洗面室などの脇役も気持ちよく過ごせる, そんな無理のない家づくりを提案しています。 僕が足を運んだ美術館や展示会などから effortlessな暮らしづくりのヒントをご紹介します。
2011年7月22日金曜日
2011年7月3日日曜日
長谷寺~あじさいの秘密~
たまたま横浜に住んでいたころに紹介された美容院が鎌倉にあり、この度あじさいの時期というのもあって、そのついでに鎌倉の長谷寺を訪れることになりました。
私の生まれた奈良にもあじさいで有名な矢田寺というのがあります。それぞれの土地であじさいの名所があるのかもしれませんが、私にとってはあじさいといえば矢田寺でしょう、と普段は無意識でいるようでもついつい花をもたせたくなるのが故郷のようです。しかし帰り道には、長谷寺かぁどんな程度のものなのかねと感じていたのもおぼろげになるぐらいに貴重な体験ができました。
鎌倉は海と山に隣接した街並みが特徴ですが、長谷寺はそれらが一望できる観音山の裾野から中腹にかけて境内が続いています。切り立った斜面沿いに散策路が設けられているため、目線をあげたり下げたりしなくとも自ずと視界には丁寧に配置された植木が目に留まりやすくなっています。
そこから次第に視線は斜面を見上げたり見下ろしたりすることになるのですが、今まで経路沿いのアイレベルでみていた花々がその時、狭められた視角のなかで奥行き方向へ同時に見通せることになります。
さらに、斜面に植えられた2500株のあじさいは標高の低いものほど気温が高いため枯れ始めており、上位のものほど生き生きとしています。その様が傾斜面を雪崩のごとく一挙に目に飛び込んできます。
そこには遠い近いの距離感覚だけでなく、時間の遠近感、つまり懐かしさや予感といった感覚を刺激する仕掛けが込められているようです。走馬灯と呼ばれる体験が私はありませんが、この身体感覚はおそらくそれに近いものではないでしょうか。
時間は不可逆なものとされていますが、果たしてそうなのでしょうか?私たちは住まいの設計を通じて、日常に潜んでいる身体感覚の可能性を最大限に活用しながら、時間の不可思議さの秘密を少しづつ紐解くことで、いつか家そのものがタイムマシンに変化していくことを期待しています。
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