神奈川の伊勢原から、京都の岩倉に引っ越して、3週間が経つ。新しい職場まで川沿いの桜並木の紅葉を眺めながら徒歩で20分余り、しばらくぶりの関西圏での暮らしは、話し言葉の端々にぎこちなさはまだまだ抜けないけれど、少しずつ生活がリズムを刻みだしている。
伊勢原の町では、ボンフーレと言う名の、お気に入りの老舗の洋菓子屋さんがあって、週末毎のジョギングがてらに寄ると、店のマスターと女将さんが親身に僕の話を聞いてくれた。そしてマスターは、このケーキがいかに素材を吟味し精魂込めて作っているかを僕に語りかけ、女将さんの言葉からは、裏方で店の手伝いに励む三人娘たちへの愛おしさが、常に感じられた。
身寄りのない土地での二年半だったけれど、遠い親戚ぐらいの、この店での距離感に、安心させられた。転職で僕が引っ越すことに決まり、荷造り用のダンボールが足りなくなって、店に何度ももらいにいったっけ。
そして今、この岩倉の街には、五十年近く続くパン屋さんがある。朝の通勤路で店の前を通りすがると、ガラス越しにすでにたくさんの種類のパンが並び、かぐわしい香りを通りにまで漂わせている。休みの日に僕はマイバッグを手に店に立ち寄って、今週の朝食用の食パンを選び、そのついでに、たくさんある菓子パンの中から一つだけ、これはと言うものを選ぶのが楽しみだ。そうすると、ちょうど総額が400円を超えて(食パンだけだと規定金額に達しない!)、ポイントカードにトトロを象ったスタンプを押してくれる。(娘さんがジブリファンらしい!!)
たまに女将さんが、ちょっとしたおまけのパンをくれたりもする。僕は店の壁に掛けられた油絵を見て、これはいい絵ですねと、褒めたりする。主人が習ってもないのに休みの日に描いたのよと、嬉しそうに彼女は話し、どおりで、この店の良さが出ているなって思いましたよと、僕は応える。
この店の名前は、ブレーメン。そう、グリム童話の音楽隊の名。年老いたロバが、音楽家になることを願い、ブレーメンを目指して旅に出る。道中で、同じように年老いた犬、猫、食べられそうになった鶏と出会い、最初に目指した思惑とは異なるけれど、力を合わせて、居心地の良い場所を手に入れるまでの話・・・
短くなった日が暮れて、仕事帰りの道すがら見かけた、店先のショウウインドに映るこの影は、何十年と変わらず、この街に住む誰かの夜更けとともに、ここにあったのだろう。目指していく先にあるものではなく、その過程でいつしか住まった場所や出会った人がいる。新しくこの街に音楽家(のようなもの?)を目指してやってきた僕は、そのかけがえのないものたちを、見過ごさないようにしていたい。